Tuesday, May 31, 2011

6月、気持ちも新たに

今年もあっという間に、6月。半年目に突入!

津波騒ぎで、なんだかんだと忙しく、かつせわしく、かつ落ち着かない生活をしていたけど、

今月末に、ようやくふるさと三陸町へ3週間だけ帰ることが決まりました。

ということで、気持ちも新たに、ブログもまた始めようと思います。

・・・・・・・・・*・・・・・・・*・・・・・・・*

三陸へは、今回は私一人で行きます。


本当は、パートナーも行きたいって思っているんだけど、状況が状況でもあり、日本語のわからない彼が行って、迷惑に ならないように、私だけで行くことにして、彼が行く分の旅費は、家族にあげてこようとということにしていて、彼に感謝(vv)!


それにしても、日の経つのは本当に早い。

オーストラリアは、というか、私の住んでいる南オーストラリア州は、6月からが
暦の上での冬の始まり。

そのせいか、今朝の最低気温はなんと4度!とっても寒かったです><;


でも、寒さを感じる度に、去年行ったときの三陸の寒さを思い出し、津波のあと
停電していたとき、ふるさとの家族やみんなは、どれほど寒い思いをしたことだろう、、、
って思うと、また涙が出てしまう。。。。



3月から始めた老人福祉施設でのケアワーカーの仕事。
今朝も5時に起きて、6時半に家を出たので、まだ薄暗いから、よけいに寒くて、
車のガラスもすっかり霜で覆われていました。


この老人施設での仕事は、津波の起きる10日ほど前に始めました。


今は、かなり慣れて、あまり緊張せずに出かけられるようになりましたが。。。

まだ慣れていないときは、何をしていいかわからない上に、
一番忙しい時間なので、皆の迷惑にならないようにって思うと、自分であせってしまっていました。


でも、今は何をしていいのかだいたいわかるし、お世話もどこに時間をかけて、どこに
手を抜くか(言い方は悪いけど)要領がわかってきたから、何か指示されてもうまく動く
ことができるようになりました。

津波が起きてすぐに、家族の安否が何もわからないどうしようもない状況のとき、
このケアワーカーの仕事のおかげで、とっても助かりました。

お年寄り達や他のケアワーカーの人たちが、毎日心配してくれて、声をかけてくれたり、
お世話をしていると、何もかも忘れて仕事に集中できたので、精神的に助かりました。


今働いているのはちなみにACHグループという老人介護施設です。
http://www.ach.org.au


実家の母親も、かなり認知症が進んでいるような感じです。

今、私はこちらのホステルと認知症のユニットで働かせてもらっています。
認知症の人たちは、毎日様子が違って、本当に同じっていうときがありません。

でも、私は、認知症の人たちのお世話が大好きです。

帰ったら、母親に会えるのがとっても楽しみ(nn)!








Wednesday, January 5, 2011

二年越しのアプリコット







左:去年の暮れ、お友達が来た時
上中央と右:今日私一人で採ったアプリコットと、木からもぎ取って食べている時の写真
うちの庭にある大きなアプリコットの木。



例年だと、12月の初めから中旬にかけて収穫し、クリスマスまでにはほとんどなくなってしまうんだけど、今年は、熟すのがとっても遅くて、3週間くらいは遅い出来。



ということで、とっても長い期間、味わうことができた。




お友達が何人か来て、アプリコットを採って行ったけど、なんでも新鮮なのは美味しいもの。




特にアプリコットは、木からもぎとって食べるのがものすごく美味しい。



私とスチュアートは、ちょっと青いところが残ったアプリコットのまだすっぱさがちょっと残る感じのが好き。そういうのが、まだ採れているから、本当に今年は長く味わっている。



最近になって、かなり鳥が食べたりつついたりして、自然に地面に落ちる数が多くなったので、今日はアプリコットの木の大掃除。



今日は、朝から外に出て、落ちている実を拾ったり、木から採ったりして、だいたい採りつくした。


あとは、鳥さんたちに残してあげよう。



さて、4時ごろから夜にかけて、キッチンに立ちっぱなしで、アプリコットシチューなるものを作った。



シチューと言っても、お肉とか野菜とかの入ったものではなくて、アプリコットに砂糖を入れて、とろとろに煮詰めたもの、アプリコットソース。




甘酸っぱくて、本当に美味しい(nn)!




冷凍しておけるくらいたくさん出来たけど、冷凍庫にも場所がないので、お隣や近所の人におすそ分けした。





ヨーグルトにかけて食べるのも好きだけど、そのまま食べてももちろん美味しい(^ン^)


























Monday, January 3, 2011

明けましておめでとうございま~す(nn)!

このブログを開いてくださった方へ







明けましておめでとうございま~す
(^ー^)



皆様にとりまして、今年も健康で楽しい 一年になりますようにお祈りしております。




さて、この写真は、日の出ではなく、夕日です。

この日の日没時間は8時33分。


アデレードは、西に海があるので、お天気がよければ、毎日でもこんなに美しい夕日が水変遷に沈むのを見ることができます。


私の大晦日の恒例行事は、近くの海に行って、その年最後の夕日に手を合わせて、一年のお礼をして、来年のみんなの健康と幸せを祈ること。



日本では初日の出にこだわっていましたが、大晦日はたいてい夜中まで起きていて、次の朝起きるのは大変。

それに、アデレードの朝日は、山から出てくると、すぐに明るくなってしまうので、西に海のあるアデレードでは、やっぱりゆっくりと静かに沈んで行く夕日の方が好きなんです。


そんなアデレードは、この前の大晦日はなんと最高気温が37度くらい。

予報では、43度まで上がるって言ってたんですが、その前にチェインジと言われる気圧の変化が来て、40度にはなりませんでした。それでも、昼はものすごく暑くて、でも夜になったら、17度くらいと、すごい気温の差。


この夕日はサマートンビーチからの夕日。ビーチでは泳いでいる人もいました。


夜中は、近くのグレネルグビーチへ行って、お友達と一緒に、砂浜でカウントダウンとともに始まる花火を見ながら、新年を迎えました。砂はちょっとひんやりとしていましたが、気持ち良かったです。

そんな砂浜に座って見る花火も、なかなかオツなものですよ。

ということで、今年も、お互いに、健康で元気に楽しく過ごせればいいですね(^_^)!




Saturday, November 27, 2010

偶然の出来事

たま~にあることなんだけど・・・・

『あれ、これってただの偶然???』って思うような出来事がある。


今日の偶然は・・・


私は、時々、何か英語の単語やフレーズで、面白いな。。。とか、こういう言い方があるんだ。。。って思ったものを書いて、ポストイットって呼ばれるメモの紙に書いて、壁に貼っている。

それは、それらを覚えたいから、書いておいて、ときどき見て思い出しながら少しずつ覚えようという目的。


そしたら、先週、壁にいくつか貼ってあるうちの1枚が、ポロっと下に落ちた。
それには、<serendipitious 偶然の、思いもかけない (5/27/2010)>って書いてあった。

『ああ、そうだ。。。こんな言葉もあったなあ。。』っと思って、そのまま、それは私のパソコンの目の前にただ置いていた。


そして、先週の日曜日に、南オーストラリア豪日協会(AJA-SA)主催でガレージセールをしたんだけど、
それに出店するために、いろいろと物を整理していた。

その時、ある、大きな筒状にまるめてあったポスターがあった。開いてみると、それは、メグ=ライアンとニコラス=ケイジ主演の映画「City of Angeles」のポスターだった。

10年以上前に、まだ一人暮らしをしていたときに、前そこに住んでいた人が、壁に貼ったままおいていったもので、なんとなく好きで、自分もしばらくは壁に貼ってあったんだけど、引越しを繰り返しながらも、そのままとっておいたものだった。

見つけたときに、『ああ、まだあったんだ。。。』くらいにしか思っていなかった。


そしたら、夕べ、キッチンで洗い物をしていたら、テレビで何か映画が始まったのがわかって、その時は、なんの映画かはわからなかったんだけど、リビングに行って見始めたら、どこかで見たような映画。。。

『あ、これってもしかして。。。』って見ていたら、この映画のとっても印象的なシーン、ビーチに黒いコートを着たエンジェル達(?)が夕陽を眺めながら、音楽を聴いているシーンが出てきて、「City of Angels」だってわかった。


『あら、先週のあのポスターは偶然なのかしら・・・?』と思いながら、私の好きなメグ=ライアンが登場したので、ひきつけられるように、見始めた。前に見たことはあるんだけど、詳しい内容はほとんど忘れていたから、新鮮な気持ちで見始めた。


そして、今度は、またまた偶然な出来事が。。。。

なんと、この映画の中で、病院に入院していたミスター・メッセンジャーという役の人が、そこで使った言葉。

それが、<Serendipitious> なの。

彼は、映画の中で、「なんてSerendipitious!なんだろう!Serendipitious!わかるかい、この言葉?辞書で調べてごらん!」とかなんとか言いながら、喜んでいたシーン(この部分は映画を見ないと意味がわからないと思うけど・・・)


といことで、私だって、彼と同じ気持ちだった(笑)



さて、まとめると・・・

Serendipitious の単語メモが壁から落っこちて、私に、何かメッセージをくれたこと
City of Angels のポスターが出てきたこと
City of Angels の映画がテレビで放映されて、それを見たこと
Serendipitious の言葉が使われたこと



そのどれも、私が別にそれをしようとした訳じゃないんだけど、、、

偶然にも、繋がったような気がする。

これが、<Serendipity 偶然>


本当に、面白いなあ。。。(nn)





Friday, November 26, 2010

結婚と期待

曽野綾子さんの本『「いい人」をやめると楽になる』<敬友録>より



p149

普通、結婚の時には、人は何とかして体裁を作ろうとする。まずは見合いの日には、娘たちはせいいっぱいきれいに見せようとする。身上書には、家族のすべてが健康でいい学校を出て、社会でもしっかり働いているということを書く。

しかし私はそうではなかった。三浦朱門が私と結婚してもいいと言った時、私は自分と自分の家庭の悪いところをまず並べ立てたのであった。

<中略>

私の家は、父母が不仲だったから、家の中は冷たいものであった。家庭の団欒などという言葉は娘時代の私には縁がなかった。いかにも穏やかに見える瞬間はあったが、それも気まぐれな父の気分一つでいつ変わるかわからない、という恐怖に私は絶えず脅えていた。

じつは私はそういう火宅のような家そのものを恥じていたのではないような気がする。しかし結婚する相手が、妻には当然のように、温かい優しい家庭に育った娘を期待しーーーということは、すんなりと育ってひねくれていない性格を求めているとしたら、私はその期待に反していた。だから正確にそのことを告げて、相手がそれでもいいかどうかを考えてもらわなければならない。

そういう意味では、私は正直であった、と言っていいだろうか。いや、それは少し褒めすぎのような気がする。私はつまり、後からクレームがつけられるのが怖かったのである。骨董屋に行くと十数枚揃いの小皿などに「少々キズあり」などと書かれた札がつけてあることがあるが、私はああいう小心な心の持ちようが好きであった。
「悲しくて明るい場所」



Wednesday, November 24, 2010

人がしてもしない

曽野綾子さんの
『「いい人」をやめると楽になる<敬友録>』より


p134

「人がしなくてもする」「人がしてもしない」が品位である


品位というものは、比較的地味な服装から滲み出ることが多い。
金とか、赤とか、紫とかいう色は、人目を引くことが多いが、そのような色を
上品に使うのはなかなかむずかしい。

服のように、外から簡単につけ加えることができるもので自分を主張することが、
まったく意味がないとは言えない。ファッション産業が立派にそのことの意味を
証明している。

しかし一面では、衣服などで自分の存在を主張してみても、つまらないことは
よくわかるのである。だからむしろ、くだらない衣服などで、人目を引こうと
いいう見えすいた計算を放棄することに意味が出てくる。

しかしそれは、別な面で、自分に自信のある人しかすることができない。
人よりでしゃばらないこと、功績を人に譲ることができること、黙っていること、
密かに善行をなすこと、自分の持っているものをみせびらかさないこと、
などは、すべて力のない人にはできない行為なのである。

そしてそれらのことが気品とか品位とかの本質になっている、と私は思う。

「黙って死んでいく」という言葉も私は好きである。

もちろん、私をはじめとして、人間はなかなかそういうことはできない。間違った
非難をされれば、私たちは大声で反論する。それが今では当然の人間の権利だと
思われる時代でもある。

しかしそんなことはできたら超越したいものである。自分の生き方を持っている限り、
それがいけないと言われても、変更する理由がないのである。

しかし現在、人間が関心を持つのは、風評であり、評判であり、金であり、時には
ただ何でもいいから有名になることなのだ。どんな行動でも、立居振る舞いでも、
道徳の範囲でも、世間がやるならやっていいのである。
(中略)
人がするからいい、のではないのである。
人がしてもしないし、人がしなくてもする、というのが勇気であり、品位である、
と私は教えられた。

しかしそういう教育をしてくれる人に出会うことはめったになくなった。

「悲しくて明るい場所」より



贅沢な一生を決めるもの

曽野綾子さんの本
『「いい人」をやめると楽になる<敬友録>』より


贅沢な一生かどうかは愛のあるなしで決まる

最後に残すべき大切なものは「愛」だけだといったら、また歯の浮くようなことを言うと
嫌われそうだが、死ぬ時に、人間としてどれだけ贅沢な一生を生きたかは、どれだけ深く
愛し愛されたかで測ることになる。

愛は恋愛だけではない。男女の性の差も、身分を超えた、関心という形を取った愛の蓄積である。

それ以外のものは大地震の時の陶器のようにぶっ壊れる危険に満ち満ちているから、とても
カウントの対象にはならない。

「自分の顔、相手の顔」より